男子は父親は超えられるのか?
(もはやスクリーンやテレビ画面の向こう側にしか存在しないような)頑固で独裁的な父親を超克しようと足掻く息子。長崎出身・44歳のソングライターによる本作は、そんな若くて向こう見ずだった少年が、数十年後に辿り着いた地点を描いた一曲だ。
福山のエモーショナルな歌唱は(歌詞で多用される疑問形とは裏腹に)現在の主人公が感じている、父親を超克したことへの確信を表現したものだ。
とは言え、本作はあくまで家族へ向けた歌であって、仇敵に向けた勝利宣言ではない。サウンドを一言で表せば「ストリングスをフィーチャーしたバラード」だが、そうした言葉から連想される大仰さを前面に押し出した作品ではない。家族を想う男のどこかメランコリックな心持ちにも対応した、濃密でパーソナルなサウンドを持った作品だ。
南米アンデス地方の楽器 サンポーニャの、エスニックでちょっと間の抜けたサウンドは、その他の楽器群と歌唱の相乗から生じる過剰な親密さに、爽やかな抜け感を加えている。
そもそも本作に限らず、福山雅治をソングライターという観点から見たとき最も興味深い点の一つは「歌詞に垣間見える福山の家族観(とりわけ父と子の関係に対する視点)」にある、と個人的には思っている。本作でも、主人公の父親への想いの複雑さとは対照的に、母親への感謝はもっとあっさりとした形で表わされている。要するに、彼は「昭和の男」的な問題意識を火種に抱えた作家なのだ。(ちなみに編曲者の井上鑑(あきら)の関わりまで含めた、福山のソングライティングも興味深くはあるのだが、こちらはまた別の機会に書きたい。)
そんな昭和の男が、過去に向き合ために提示する方法が「誕生日に百合を送る」ことであるというのは、いかにも成功者の色男らしい。余談になるが、最近、花を贈る文化がどういうルーツを持っているかが気になってネットで検索していたら、「花を贈る文化を日本に根付かせよう」という花屋産業のスローガンがこれでもかと画面に並んでちょっと辟易してしまった。その誠意が踏み荒らされないためにも、本作は花屋産業のプロモーションには利用されない方が良いだろう。
彼の濃厚な歌が気分じゃないというかた向けに、CDには同曲のインスト・バージョンも収録されており、そちらでも十分にこの濃密な雰囲気を楽しむことができる。お好みに合わせてどうぞ。
(オフィシャル動画は無し。iTunesでも取り扱い無し。閉じてます。)