2013/05/30

LAND/ゆず


サイケデリックな意匠を上塗りする実直さ


まず何よりもサージェント・ペッパー期のビートルズを思いっきり意識したサウンドが耳を引く。あまりに古く、手垢もベッタベタな参照点だが、ゆずの持つサウンド・フォーミュラと融合することによって、最終的なアウトプットとしてはほとんどコスプレ的にはなっていない。本作のリプリゼントする不安や焦燥を何よりも説得力を持って表現する、金切り声のように捩じれたストリングスやホーンの音、間奏部でリズムが三拍子に変化する凝った展開など、蔦屋好位置のギミックたっぷりで現役感溢れるアレンジも好アシストだが、何よりもゆずのメンバーの根っからの実直さ(あくまで想像)から生じる熱量が無かったら、もっとサムい結果になっていてもおかしくなかったはずだ。

リリックのテーマは、日々の疲労感、インターネット・コミュニティへの違和感、復興への願い、放射能への不安、”愚痴愚痴言わずお前がやれ”言説など。その言葉の全てがあまりにストレート過ぎるゆえ、本作は”居酒屋をハシゴして帰る中年親父の戯言と酩酊状態での波瀾万丈な岐路”をテーマにした一大サイケ・ポップ絵巻という線が濃厚。そう、本作のラストのクライマックスでの『愛するここが/紛れもない/僕らのLAND』という歌詞が意味するのは、主人公が無事に自宅に帰り着いたぞということなのだ。

・・・というのは冗談にしても、ゆずってホントに(場合によっては鈍感と取られかねないほど)情熱的で、よくも悪くも衒いない素直な人たちなんだろうな、と感心してしまう。(それにしても『一期一会』なんていかにもな言葉のセンスとか『おやすみなさい眠る家族は』というリリックとか、本気でさっきの解釈が正解な気がしてきた・・・)

ただ、やっぱ今ビートルズってのはなー。恐らくは作品のテーマ的に、当時のビートルズが持っていたオープンで変革的なムードを召還したかったのだろうけど、それにしてもちょっとおぼこ過ぎるんじゃないかという疑念は拭えない。「俺が全ポップスのサウンドを更新する」的な野心ももうないだろうし、最早そういう期待を受けるポジションでもないだろうけど、何らかの系譜に連なることなく、自らのサウンドを更新することに腐心しているだけなら、『何を残』すどころか結局何にも残らないんじゃないかしら。なので、狙いとかないんです、ただ好きなだけなんです、ってのでも全然構わないので、この路線をもっともっと深堀りしてくれることを期待。





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2013/05/24

Delight/miwa


「成功をあきらめない」ひたむきな自信


 SSWでありながらアイドル顔負けのルックスと清涼感あふれるイメージを持つ、という「ポストYUI」的な位置から現れた神奈川~目黒区出身のアーティストによる3rdアルバムのタイトル・トラックにしてアルバム先行曲。 

 これまでのmiwaのイメージにはあまりない、4つ打ちのキックとシンセのリフをフィーチャーしたハウシーなトラックに乗るのは、若くして成功の直中に居る女の子の真っ直ぐな確信(「人は夢を叶えなければいけない」)と野心(「私は夢を実現したい」)と自信(「私にはできる」)を歌った歌詞だ。

 ハウスと言ってもここには粘り着くようなダンスのグルーヴはなく、代わりにマーチング・バンド的な推進力が楽曲の中心に置かれることで、勇壮なフィーリングを強調している。ウワモノは華やかかつメロディアスで、全体としてColdplayのいくつかの楽曲に近い感じもある。曲の途中で登場する変拍子パートは、リズムが変化してなお変わらない彼女の自信を強調するようだ。

 ただ、miwaの歌唱そのものにはほんのわずかにだが不安定な様子がちらつく。それは、実はこの主人公の女の子は、屈託のなさそうな笑みが眩しい”表の顔”と自信満々で野心的な”裏の顔”の更に裏側で、歯を食いしばってひっそりと不安に耐えているのかも知れない、という想像をかき立てもする。プライドが高いことは悪徳ではないが、その不安がもっと楽曲に汲まれれば、ソングライターとしての魅力がもう一段増すような気がする。





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2013/05/16

あまちゃんオープニングテーマ(ロングバージョン)/大友良英


音楽が物語るということ


 音楽それ自体がストーリーを語ったり感情を表現したりする機能があることによって、物語作品のテーマソングは「視聴者を物語へ没入させるための導線」というエンターテイメント面での役割以外にも、「物語のレジュメ」や「物語への新たな感情や視点の付加」といった、より複合的な役割を果たすことがある。

 言うまでもなく、本作はNHK朝の連続テレビ小説『あまちゃん』のテーマソングだ。先に白状しておくと、僕はドラマの内容はあまり熱心にフォローしていない。物語の骨子・全体の流れは理解している(つもりだ)が、詳細は知らない。ただ、そのドラマのテーマ・ソングである本作が、大胆にもわずか一分半という短い時間の中に、ある少女の成長譚としての“物語”とそこに生じる感情の流れを描くという役割を果たしているとしているしたら、それは僕にも分かる。

 本作は大きく分けて4つのパートから構成されている。最初のパートでは、スカのような裏拍を強調したビートに乗った弾むようなメロディが、主人公の少女の溌剌とした様子を表現すると同時に、本作へのリスナーの印象を決定づける。RPGのテーマ・ソングのような壮麗なオーケストレーションが登場する第2パートは、少女(少年も)の成長譚とは、実はそれだけで一種の冒険譚たりうるということを思い出させる。第3パートでは、そうした前2パートを引き継ぎながら東西を問わぬ様々な楽器が合奏し、賑々しい大団円を展開する。そして、最後のパートでは、第1パートと同じメロディを用いながらも数段の転調することで「始まりと同じようだが何かが確実に変わっている」という”物語”の結末を想起させつつ、穏やかに作を閉じる。

 こうした物語的な展開に花を添えるのは、最初のパートで登場する”動物の鳴き声”を模したメロディだ。動物の声を楽器音で模した音楽は沢山あるが、ここでの用法は南北戦争直後、軍楽隊の払い下げ楽器を手に街角で見世物的に演奏されていたごく初期のジャズのそれを思わせる。純粋な“賑やかし”であると同時に、コスモポリタンな感性によるポップスが世界中に跋扈する20世紀半ばより前の、大道芸的とも言えるストリート感覚を作品へ注入しようという目論見を感じる。東西の差異はあるものの、同じように道端の大道芸を主戦場としていたちゃんちきやチンドン太鼓といった楽器が用いられているのも、そういった狙いによるものだろう。

 いや、しかしこれは大友良英の近年の活動を念頭に置いてるから思いつくだけの、一種の寄り道ではある。コンポーズそのものは間違いなく前述の物語の方向を向いているし、あまちゃんの主要テーマに「ストリート=民衆からの支持や突き上げ」があるという話も、今のところ僕の耳には(目にも)入っていない。いや、アイドルをテーマにしている、という話はあるし・・・絶対につながらないってことはないかな? ドラマの今後のアクロバティックな展開に期待!

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2013/05/10

化物/星野源


冒頭には物語の全てがある


 先週発売された、星野源の待望の新作アルバム『Stranger』のオープニング・トラック。


 『幕が開ける』『お辞儀』『奈落』歌詞の端々に登場するこれらの単語から、本作の主人公が自らの人生を舞台に例えようとしていることが分かる。

 彼には予感がある。それは、彼の心の中で雄叫びを上げる「希望」が、その宿り主自身も含めて、彼の世界を変えてしまうという予感だ。

 そう。彼は追い詰められている。現在の彼の日常は我々が舞台と聞いて思い浮かべる華やかなイメージからはほど遠い。思うように変わらない、些細な不幸の連続である日常を『地獄』と呼ぶほどに、彼は追い詰められている。根本から違う生き物、現在の自分にはおよそ理解出来ないような「化物」にならなければ!と強く願うほどに、だ。

 だが、そんな悲痛な叫びも、ひとたびアイリッシュ・フォーク風の軽快な2ビートに乗せられれば、爽やかで穏やかな確信に満ちた願いに変身してしまう。人々の想いを、何か別の、とても美しいものに変えてしまうという音楽の魔法によって、この曲自体が既に「化物」になっているのである。

 本作はアルバムの1曲目だということを考えれば、ここで歌われる『僕』の物語がアルバムの物語の核になるのかも知れないと予想できる(残念ながらアルバム全体はまだ聴けていない)。だが、その一歩目が全てを予言している。物語を通して、この男の日常は華麗な変身を遂げるだろう。


 物事は変わる。心の中で強く叫ぶだけでなく、誰かに届くように届けられるように「歌う」ことによって。もしあなたが今、何も変わらない、変わっていないという失意の中にいるなら、多分まだ始まってもいないのだ。この短い曲はそんな風にも語りかてくる。

 「でも、ちゃんとそれらしく歌うってのは、それだけでもなかなか大変なものだよ、ゲンさん」と一人返事しながら、心と呼ばれる、胸の奥にある広大なスペースの片隅で、確かな熱を帯びたものが湧いてくるのを感じる。その熱源は勇気みたないな名前だったかも知れない。








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2013/05/02

憂、燦々/クリープハイプ


クリープハイプのポップ・スターとしてのポテンシャルが表出した作品



 そもそも昨年のメジャーデビュー盤で彼らを知り、いかにもサブカル青年的な尾崎世界観の髪型と、ビッグなサウンド、露悪的な言葉のセンスに「俺はパスだな~」と思っていた。(髪型については同族嫌悪的な側面もあったかも知れない・・・)

 前作の『社会の窓』を聴いたときクリープハイプのイメージが20度くらい変わった。相変わらずトゥーマッチだとは感じたものの嫌悪感は薄れた。赤裸々な歌詞とこなれた演奏。したたかなバンドだと思った。

 日焼け止め化粧品のCMで初めて聴いた本作のインパクトはそれを遥かに超えていた。角度で言うと60度は変わった。尾崎の声こそ一瞬で分かるものの、その曲調はあまりに爽やかでそれまで抱いていたバンドの印象と大きく異なっていた。だがこの曲にはバンドの生命線の在り処を指し示して余りあるほどのキャッチーさ、多くの耳を引き付ける魅力がある。

 そのメロディ以上に印象的なのはポップ・スター然とした歌詞だ。ヴァースでは何をやっても確信が持てない若者の屈託や葛藤を描きつつ、コーラスではそれを引き受るポーズを見せる。離さなければ、何でも叶える。どこへでも連れて行く。その憂鬱な日々から、連れ出してやると囁きかける。

 尾崎の歌自体にはその言葉ほどの甘さは感じられない。陳腐な表現だが天使と悪魔という対比で例えれば、尾崎の歌唱は間違いなく後者寄りだ。そのキリキリした歌声には、その曲が示す「行き先」が必ずしも素敵な場所ではないかも知れないと思わせる暴力的なニュアンスがある。

 それが悪いということではない。そのニュアンスがこのバンドの表現にリアリティを生んでいる。たとえ最終的に今よりも酷い場所に行き着くことになると分かっていても、いっそのこと飛び込んでしまいたい、という刹那的な衝動を喚起する。

 (あるいは、そこまで分かっていて、全て皮肉のつもりでやっているのかも知れない。ポップスターってのは暴力的で刹那的なモノなんだぜ。と警告しているのかも知れない。)

 2013年がクリープハイプの歌に表れているように殺伐とした時代だったとしたら、クリープハイプは(というか尾崎世界観は)そのポップネスによって新しいオザケンになるかも知れない。圧倒的な個性を持つには至ってないが、ライブ映像など見ると思った以上に演奏はファンキー。どこへでも連れて行ってくれるなら、僕はよりエクレクティックなポップの海原へ連れてって欲しい。








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