2013/05/02

憂、燦々/クリープハイプ


クリープハイプのポップ・スターとしてのポテンシャルが表出した作品



 そもそも昨年のメジャーデビュー盤で彼らを知り、いかにもサブカル青年的な尾崎世界観の髪型と、ビッグなサウンド、露悪的な言葉のセンスに「俺はパスだな~」と思っていた。(髪型については同族嫌悪的な側面もあったかも知れない・・・)

 前作の『社会の窓』を聴いたときクリープハイプのイメージが20度くらい変わった。相変わらずトゥーマッチだとは感じたものの嫌悪感は薄れた。赤裸々な歌詞とこなれた演奏。したたかなバンドだと思った。

 日焼け止め化粧品のCMで初めて聴いた本作のインパクトはそれを遥かに超えていた。角度で言うと60度は変わった。尾崎の声こそ一瞬で分かるものの、その曲調はあまりに爽やかでそれまで抱いていたバンドの印象と大きく異なっていた。だがこの曲にはバンドの生命線の在り処を指し示して余りあるほどのキャッチーさ、多くの耳を引き付ける魅力がある。

 そのメロディ以上に印象的なのはポップ・スター然とした歌詞だ。ヴァースでは何をやっても確信が持てない若者の屈託や葛藤を描きつつ、コーラスではそれを引き受るポーズを見せる。離さなければ、何でも叶える。どこへでも連れて行く。その憂鬱な日々から、連れ出してやると囁きかける。

 尾崎の歌自体にはその言葉ほどの甘さは感じられない。陳腐な表現だが天使と悪魔という対比で例えれば、尾崎の歌唱は間違いなく後者寄りだ。そのキリキリした歌声には、その曲が示す「行き先」が必ずしも素敵な場所ではないかも知れないと思わせる暴力的なニュアンスがある。

 それが悪いということではない。そのニュアンスがこのバンドの表現にリアリティを生んでいる。たとえ最終的に今よりも酷い場所に行き着くことになると分かっていても、いっそのこと飛び込んでしまいたい、という刹那的な衝動を喚起する。

 (あるいは、そこまで分かっていて、全て皮肉のつもりでやっているのかも知れない。ポップスターってのは暴力的で刹那的なモノなんだぜ。と警告しているのかも知れない。)

 2013年がクリープハイプの歌に表れているように殺伐とした時代だったとしたら、クリープハイプは(というか尾崎世界観は)そのポップネスによって新しいオザケンになるかも知れない。圧倒的な個性を持つには至ってないが、ライブ映像など見ると思った以上に演奏はファンキー。どこへでも連れて行ってくれるなら、僕はよりエクレクティックなポップの海原へ連れてって欲しい。








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