2013/06/28

Colorful Life/Dorothy Little Happy


ただアイドルであるという良心


個人的なことを言ってしまうと、Dorothy Little Happyはここ最近で一番推しにくいアイドルだ。彼女たちはただアイドルであるから。
今年2月の1stアルバム/リリース後では初となるシングルは、イントロのきれいなアルペジオが印象的な爽やかでストレートなポップス。身の回りに流れていく日々を色鮮やかだと歌う前向きな歌詞。タイトルはどの付く直球、「coloful life」。これまで同様彼女たちは“いかにもアイドル”だ。

考えてみると、一つ前のアイドルブームを牽引したモー娘。の頃からずっと、そのブームの真ん中にいたのはアイドルらしからぬアイドルだったのではないか。(AKBは曲自体は直球ではあるけれども、総選挙や握手会などのビジネス的仕掛けにフックしている人がいるのも事実だと思う。)曲がロックだとか、○○しちゃうアイドルといった、「アイドル然」としていないことが今の多くのアイドルの売りであり、それはアイドルを聞いていることへの一つのエクスキューズになっている。少なくとも自分にとっては。そうやって迂回してアイドルに熱を上げる人間にとって、ポップで可憐な曲を真剣に歌って踊るドロシーの姿はあまりにも純粋すぎるのだ。

そういう回りくどい目線からは、ドロシーはいわば聖域に見える。彼女たちを推すことができるのは、アイドルが好きで好きでたまらないからアイドルを推している、そういった人たちなのではないかと。ただ、こうした彼女たちの周囲に、アイドルと観客のクラシックな風景があるような気がして、推すまでに至っていなくても、自分はドロシーを目で追い続けてしまうのだ。


真っ白なキャンパスを前に想像する少女(の想像力を疑う)


威勢のよいタイトルとは対照的に、本作の主人公の目の前にあるのは、まだ真っ白なキャンパスだ。これはカラフルな“現在”についての歌ではなく、“未来”についての歌なのだ。

よくよく歌詞を聴いてみると分かるのだが、実はこの主人公は未来のことばかり歌ってる。未来は変わる。いつか変わる。あなたと出会うことで変わる。“カラフル・カラフル”と強調する割に、なぜかその中身が具体性を帯びてこないのも、歌っている本人ですらまだ想像できていないから。80sギタポ風アルペジオのイントロも、ヴァースを引っ張るミュート・ギターのリフも、爽やさ以上の何かをもたらすことなく、その無記名性をひたすら強調するようだが、それもこの主人公の現在地——白紙——を思えば当然のことだ。

もちろん、未来のことは分からないので、どんな“カラフル”な想像をするのも自由なのだが、“ライフ”についてはほんの少しだけ。

僕にとっての“ライフ”とは、ドブのような鉛色に染まりそうなところを必死で白色で薄めてなんとか「ん〜灰色?」という状態をキープしている日常のことであり、ほんの時たま、そこに美しい朱や青が(欲を言えば金も)入るその美しさに涙を落とす日々のことでもある。

「え?何の宣言すか?」と笑われそうだが、極彩色の絵よりも、そういうものの方が好きなって人って案外多いんじゃないかとも思う。灰色の国からやってきたドロシーちゃんはどう思うだろう?



2013/06/21

LOVE&GIRLS/少女時代




ポップ・オブ・ファストファッション・エイジ


二年前、友人から「少女時代とKARAは、日本で言ったらAKB48と東京女子流くらい知名度が違うのに、日本では並列に扱われてて興味深い」というような話を聞かされた。まあ、その話の真偽はともかく、AKBと少女時代という対比は面白いと思った。単純な比較で言えば、両者はむしろ差異の方が目立つかも知れないが、モータウンに代表される、いにしえのガールズ・ポップの参照という点では、たしかに共通点があると感じたからだ。

2010年の『Genie』以降、日本では7作目(本国では2007年以降、フィジカルでのシングル・リリースはしていない)となるこのシングル曲もまた、そうしたオールディーズの影響を感じさせるものであり、同時に決定的に違ってもいる。

例えばモータウンが、黒人社会に一旦は背を向け、白人社会、というかコスモポリタンな商業世界に向けられたものでありながら、リズムや歌唱の面にブラック・ミュージック的な訛りが残ることで、ある種の泥臭さというかド根性というか、つまりはソウルを感じさせたのに対して、本作にそうした要素は皆無だ。徹底的に揺れを排除したシャッフル・ビートに象徴的だが、それはピカピカに機械化され、ツルツルに漂白されたモータウン・ポップという感じだ。

もちろんこれは「ソウルがない!」という単純な話ではない。なかなか主音に帰らないメロディが示唆するように、これもまた帰るべき場所が見つけづらい時代のためのポップスなのだろう。それにしても「It's world wideな愛が鳴る地/降り出せ!」なんて、意味分かんないけど、ちょっとスゴい言葉だよな。


KかJか


はじめて少女時代を聴いたのは2010年だったと思う。友人の車に乗っているとカーオーディオからポップなクラブ音楽が流れてきて、しかもそれが韓国語で歌われていたので、最近のメジャーなクラブでは韓国語の歌ものまでかかってるのかと驚いていたら、その曲は少女時代という名前だけ知っていた韓国のアイドルグループでなおさら驚いた。

KARAとか同時期のK-POPに比べて、少女時代は韓国語の一音一音が跳ねるような小刻みなリズムで進んでいく歌が特徴的だ。日本語バージョンでは、言語が母音中心なのでもう仕方ないのだが、リズムがべたっとして歯切れが悪く、圧倒的に原曲が優れている。(一方KARAなんかは曲自体が完全にJ-POPなので韓国語で聴いてもそこまで違いはない)

そういうわけで今回の「Love & Girls」についても日本語バージョンではなく原曲を探していたのだが、一向に見つからない。そのあとでこの曲の原曲が日本語であることが分かった。アメリカの最新ポップスが韓国を通過して作られたようなトラックは今まで通り。こうしたトラックを韓国語同様のリズム感をもって日本語で歌いこなしていくスキルは日本での数年のキャリアを通して向上している。それはいい意味でも悪い意味でも「片言感とは異なる」日本語だ。つまり、日本語を外国語のように歌うということ。ただそれは実は、歌謡曲がJ-POPと名を変えてから連綿と日本人が取り組んできていることの一つでもある。そうしたことを彼女達がわざわざやるべきなのかどうか。アイドル戦国時代の蚊帳の外にある今こそ、韓国語のポップスとして勝負してくんないかなと期待している。


2013/06/14

でんぱ組.inc - でんでんぱっしょん


2.5次元ハードコア

2013年初頭のWWDツアーで“禊”を果たしたアイドル、でんぱ組.incの新シングル。9バージョン!での発売の甲斐もあり彼女たちとしては初週売上が27000枚と初の一万枚越えを果たした。

昨年のシングル『でんぱれーどJAPAN』と同じ作曲玉屋2060%、作詞畑亜貴のコンビで製作された『でんでんぱっしょん』はここ最近のシングルでは一番電波ソング度が高いアグレッシブな曲。というか6人体制になってからは、『でんぱれーど・・・』といい最早彼女達の電波成分はほとんどこの2人に負うところが大きい。とにかく、この『でんでんぱっしょん』、過去最高にアベレージで高いキーの声で、秋葉原/オタク感を感じさせるユニークな言葉や間の手がこれでもかと詰め込まれすぎて、歌詞が突風のように駆け抜けていく。

面白いのは『でんでんぱっしょん』のトラック自体はポストハードコア的とも言えるようなポップスで、カラオケバージョンを聴くだけでは彼女達の歌の原型がほとんど見えないところだ。今やアイドル要素がほとんどないアイドル自体は珍しくない。それでも、こうした曲をぱっと聴きでは直球の電波ソングに仕立て上げてしまう、作家陣の読み込み方、そして演者としてのでんぱ組の文化的な力は(オタクだから慣れ親しんでいて得意分野なだけであっても)他にはない魅力だろう。


でんぱ系リリック?の可能性 

“リリカル”という言葉は、現在では専ら叙情的という意味で使われるが、“リリック”という単語の意味から考えれば分かる通り、本来は歌詞が喚起する感情全般を対象とする言葉だ。詩的な力学によって感情を強く喚起する歌詞なら、その感情の種類に関係なく、リリカルと形容することができるだろう。何が言いたいかというと、『でんでんぱっしょん』はリリカルだということだ。

本作で印象的なのは、故事(「天網恢々」)や天文学用語(「パルサー」)のような、耳慣れない単語の存在だ。それらは意味が分からなくても、発語感のレベルで耳に楽しい上に、意味としても前後の歌詞とちゃんと補完し合っている。と同時に歌の外側や底流にある創作の原世界をも垣間見せる。それら全ての要素が曲にフックを作り、楽曲のハイパーなテンションを加速させている。これはリリックが時間やメロディの流れ(と制約)の中に存在する表現だからこそできることだ。

J-POPの歌詞の傾向の一つに直接性があり『でんでんぱっしょん』においてもその歌詞全体が意図するもの、提示する物語はかなり直接的だ。「少女」と「少年」はそれぞれアイドルとファンに読み替えられ、歌詞全体はアイドルとしての彼女達が目指す成功についての宣誓として機能している。そういう意味では、方向性は前作『W.W.D』から変わっていない。だが、前述のリリックの用法によって、でんぱ組.inc(とその制作チーム)が、物語を売るだけに終わらない表現的なバッファ(芸と言ってもいい)を持ってることを示している。それは今のシーンに圧倒的に欠けているものの一つだという気がする。

2013/06/07

赤い靴/Salley




アイリッシュ、どこかの音楽 

ポップスは作品の出来不出来とは別として、流行音楽という面は確実に存在していて、大量に流布されるための一定の傾向を持つ。それは大まかに言うと、何か新しい感じ、だろう。そうした「演出」の一つに地域性を持たせるということがあるように(一時期の沖縄とか)見えるが、実際にポップスの中で地域性はどれほど立ち現れているだろうか。

Salleyは公式のバイオグラフィーに明記しているところには「アイリッシュ感」を持つユニットであり(ユニット名もアイルランド民謡からの引用とのこと)、これはおそらくJ-POPでは初登場となる地域だ。アイリッシュをジグのような飛び跳ねるようなリズムを特徴としたカントリー・ミュージック、と捉えたとき、実情、今回の『赤い靴』に重なる点を見出すのは難しいけれども。とはいえ、しなやかに伸びる歌声とハイハット四つ打ち気味の乗りやすいバンドサウンドはキャッチーであり、ポップスとして十分に完成されている。

そもそも『赤い靴』というタイトルは同名のアンデルセン童話に由来するとのことで、地域性自体当初から輻輳している。こうした状態は、ポップスが流通を優先するために地域性に対して持つ緩さを示しているように思う。地域性は代々ポップス/歌謡曲の世界においてゆるやかに立ち込めて何かしらのムードを形成する。それは『赤い靴』においても同様だ。


呪いとしての夢に誇りを持つこと

タイトルは同名のアンデルセンの童話から。引用元における赤い靴が「罰としての呪い」の象徴だったのに対して、本作における赤い靴は「夢への執着」のメタファーとなっている。

恋人への憧れから始めた活動に、いつからか自分の方がのめり込むようになり、その恋人を含めた周囲の人間が次第に夢の道から降りていくことに戸惑いを感じながらも、夢を諦める(=踊るのを止める)ことを、この主人公はできなくなっている。そう。その実現が結局は競争原理に依って成立する社会でなされる以上、夢に孤独はつきものだ。その宿り主に害をもたらし、容易には免れえないという意味で、夢と呪いはよく似ている。

しかし、そもそも夢を追い続けたくても、自己の才能への見切りと生活の必要によってそう出来ない人が圧倒的多数である世の中で、それでも夢を追っていられる自分を、主人公は誇りに思ってもいる。BPM130の四つ打ちビートに、ディレイを多用したギターや軽やかな手拍子が響く爽やかな曲調と、アンヴィバレンスな感情(戸惑い)を見せるようで、実はどこまでも誇らしげなヴォーカルから何よりも伝わってくるのは、そのプライドの方だ。


呪いとしての夢に誇りを持つこと。と言うと、ちょっと捻くれた感じがするかも知れないが、実際その通り。もっと言ってしまえば、結構意地が悪そうだ。けど、気合いは入ってる(ドスが利いてる。とも)。まあ、前言を翻すようだが、競争ばかりが世界ではない。もっと気楽に構えてもいいんだぜ。という気もするが、緩みっぱなしの僕が言っても説得力ないか。