2016/05/11

サイレントマジョリティー / 欅坂46





サイマジョ現象にみる女性観


サイレントマジョリティーという言葉は本来、政治における声なき声・静かな多数派といった意味に使われるもので、個人の自我の問題に触れるべきものではない。つまりこの曲で歌われるような『何のために生まれたのか?』といった哲学的な問いは、若者のアイデンティティーの喪失の問題であって、個々人の政治的主張の有無とは関係がないはずである。だから、本来の意味ならば『政治について口を閉じているのは確かだけど、それをひとまとめに没個性だとか空気の読み過ぎだとか言わないでほしい』と拒否反応が返ってくるのが普通である。しかし秋元康は、言葉の意味を巧みにすり変えることでそれを回避した。彼の考える「サイレントマジョリティー」とは、主体的に選択して(危機管理などを理由に)「サイレント」を決め込んでいる人々ではなく、主体性のなさ、積極性のなさ、自由意志の欠如によって声を上げない人間の群れであると仮定した。生きる目的がわからない、自分とは何かがわからない。だから空気にも流されるし、口も塞いでいる。そんな仮想の「サイレントマジョリティー」を秋元康は欅坂46に演じさせたのである。ミュージックビデオの再生回数は記事執筆時点で1000万回を超え、デビューシングルとしては異例の爆発的ヒットとなった。いったいなぜここまでの話題を呼んだのか。この曲の基本となる発想を彼が楽曲として最初に登場させたのは2012年、乃木坂46のシングル「制服のマネキン」である。

《その意思はどこにある? 制服のマネキンよ》

「制服のマネキン」の場合、教師と思われる男性が教え子に対し強引にアプローチをする様子が描かれている。これが転じて、物言わぬアイドルらに対しプロデューサーが意思の覚醒を説き、それをアイドルが(ステージでパフォーマンスすることで)そのまま観衆にスルーパスする構造になっていた。だから「マネキン」とは操り人形であるアイドルのことであって、同時にそれに群がるファンのことでもあった。もっとも、彼がプロデュースするアイドルグループのファンの多くが「自分とはいったい何者なのか?」という精神的課題を「自主的に選んだメンバーを自主的に推している自主的な自分」を発見することで克服していることを、彼が一番よく理解している。「制服のマネキン」が優れているのはこうした若者の発育上の課題を、教師と生徒の関係を描くことで、プロデューサーとアイドルの関係にも、アイドルとファンとの関係にも応用できている点だ。「サイレントマジョリティー」はこの構造をベースに若干の改良が加えられている。

《Yesでいいのか? サイレントマジョリティー》

ここでは前述のような明確な教師役は存在しない。代わりに、歌詞そのものがアイドルらを奮起させる強烈な檄文として機能している。『自由を取り戻せ!さもなくば”ひとまとめ”にされるぞ!』ざっとこういった趣旨の発破をかける詞が並ぶ。すると群れの中からたった一人だけ、拳を大きく突き上げる者が現れたのだ。センターポジションを務める14歳の平手友梨奈である。彼女はここで、人間が主体性を獲得した瞬間の姿を演じてみせる。学校から屋外へと変わった舞台や軍服をモチーフにしたような衣装も、彼女の演技に、より一層の緊張感を与えている。何よりも他のメンバーの表情やメークの”没個性”感に、平手を引き立てようという意図が感じられる。楽曲においては、特にAメロの旋律は女性が歌うには低過ぎるが、却ってそれがローなテンションを的確に演出しているようだ。ポップスとしてはサビでの詞の乗り具合が控えめにも良いとは言えないのは、メッセージへのこだわりが強過ぎるためだろう(カラオケでは盛り上がらないだろう)。そのため詞の主張を、音から映像からパフォーマンスに至るまで、全てが一丸となってバックアップしようという作りになっている。その中で、平手はリーダーシップをとり他のメンバーやファンらを先導してゆく、というシナリオが描かれている。つまり「サイレントマジョリティー」は、自由を促す文章がひとりの少女を変え、そして彼女自身も周りを変えてゆく、という構造となっている。

かくして女性の地位向上や社会進出といった世界的な流れとも呼応するような楽曲が、ある種それとは真逆の価値観を持つアイドル文化の最先端で生まれた。現在、彼女の握手会の列には若い女性が長蛇の列を作っているという。アイドルは時代を映す鏡なのだとすれば、いまの日本が求めているのは、自分の意見を持ち臆さず主体的に発信してゆく女性の姿なのかもしれない。

荻原 梓


キメラが殖え続けている!


ポップ・ソングのキメラ性。マイナー調のコードやメロディー、あるいはイントロから曲を盛り上げるクラップ音や、短いピアノのリフ。それらを聴くと、この曲は電化されたフラメンコの一種だと思える。ただ、基調となるビートはフラットな4つ打ちで、電子ドラムのサウンドやオカズの入れ方はロック的。それらの上で歌われるヴォーカルは、ゆったりと優雅にシンコペイトするもので、曲調の激しさとはいささか乖離したリズムを持つ。つまり、この曲の激しくて陰気なサウンドや曲調とは異なる要素が、その歌によって注入されている。このバランス感こそ、この曲の肝だと言えるだろう。 

言葉に反映されている時代性を除去、誰の耳にも明らかな扇動的で説教めいた歌詞と、ゆったりとした歌だけを取り出せば、オールド・スタイルのフォーク・ソングにも聞こえるだろう。逆に言えば、そう聴こえさせないために、他のサウンドが導入されているのかも知れない。キメラは禍々しいが、空を飛び、大地を駆け、肉を裂きたいという人間の欲望が不足なく体現されたシンボルでもある。この曲もまた、伝え手と受け手の期待が不足なく体現されているという意味で、生まれるべくして生まれた一曲だと言える。

現代のポップスは不気味なパスティーシュの塊、という旨のことを述べていたOPNのダニエル・ロパティンはこの曲を、J-POPをどう聴くだろう。彼は、この曲とは全く異なる意味で、歌とトラックの関係性に耳が惹かれるアノーニの『HOPELESSNESS』をプロデュースした。それに比べると、やはり「サイマジョ」は無自覚過ぎる。無自覚には無自覚の良さがあるが、キメラを無自覚に生み出せば、それは一種のマッド・サイエントだということも忘れ難い。